もののけ姫の相関図!簡単あらすじのまとめや「曇りなき目で見る」の意味を考察

この記事はネタバレ情報やあらすじを含みます。未視聴の方は特にご注意ください

映画『もののけ姫』って、観たあとに、なんだか心に残るものがあるんですよね。

正義と正義がぶつかり合う世界で、アシタカは“曇りなき眼”を持って物事を見つめるべく旅立ちます。 それは、私たちが日々忘れがちな、大切なものを思い出させてくれる姿でもありました。

今回はそんなアシタカたちの物語を、少しだけ立ち止まって、見つめ直してみようと思います。

目次

相関図①|呪われた青年の旅立ち──アシタカとエミシの村

物語は、エミシ族の村から始まるのよね。彼らは大和から逃れ、山中でひっそり暮らしていたの。そこに現れたのが、タタリ神(神が怒りや憎しみに囚われ変貌した存在)──。

もともとは森を守る高貴な神、ナゴの守(西の森の猪神で、かつては偉大だった神)だったのよ。けど人間の銃弾を受けて深く傷つき、怒りと憎しみに取り憑かれてタタリ神になってしまったの。

その姿って、ちょっと目をそむけたくなるような。怒りと恨みのヘドロが体を包み、地を這う黒い触手がまるで生きているようで…。アシタカは、村を守るためにナゴの守に矢を放ったわ。

でもその代償に、右腕に呪いを受けることになるのよ。この呪い──それは人間の負の感情、怒りや憎しみが肉体を蝕む象徴として描かれていたのかもしれないわね。

ヒイ様(エミシの村の巫女的存在で、予言や霊視を行う長老女性)は言うの。「その呪いは時がたてば骨にまで達し、命を奪う」と。そして、「だが、曇りなき眼で見定めれば、あるいは…」と続けたのよ。

曇りなき眼。それは、ただの視力の話じゃなくて、心のあり方というのは間違いないとおもうのよね。損得や自分の感情を超えて、物事をありのままに見つめる力。

アシタカは「心を決めた」と言うの。「タタリ神に矢を放ったときに」と。あのとき、彼は自分の限界を知ったんだとおもう。誰かを守るためとはいえ、怒りに飲まれてしまったこと。

因みにタタリ神というのは、人間の暴力や自然破壊によって心を失い、怒りと憎しみに支配されて変貌した姿。体からはヘドロのような触手が這い、近づく者に呪いを与える。その正体は、自然の悲鳴であり、人の業が神をも狂わせた結果ともいえる存在のようね。見た目こそ恐ろしいけれど、そこに至るまでの痛みを思うと、ただの“敵”とは言い切れないのよね。

話し戻して、アシタカは、自分ではどうにもならない状況で、“攻撃”という選択をせざるを得なかった。その結果として受けた呪いを、報いとして受け止める覚悟があったということね。

でもね、このナゴの守って西の神様だったはずなのに、なんでエミシの村まで来たのかしらって思わなかった?考えてみたの。森が人間に侵食されていく中で、ナゴの守は“まだ穢れていない土地”を求めてさまよってたのかもしれないのよね。

エミシの地って、まだ人の欲に侵されてなかったという設定で、そこに救いを求めたってことかしら。でも、最期の最期にタタリ神としてその地に現れるしかなかった──それって、まるで「追い詰められた自然の断末魔」だったようにも感じられるのよ。

それからもうひとつ、この呪いをアシタカがどう受け止めていたのか、すごく気になるのよね。ヒイ様に「自分の定めを見据える覚悟があるか」と問われたとき、アシタカは「はい、タタリ神に矢を射るとき、心を決めました」と答えたのよね。

あれって、自分の行動の意味と、その報いを理解した上で、それでも進むってことだったと思うの。ただ、興味深いのが、西国で乙事主(森の猪神たちの長で、ナゴの守と同じく古き神の一柱)に出会ったときは、アシタカは攻撃しなかったのよね。

怒りや恐れに支配されず、静かに向き合う選択をしていた。ここが、アシタカの成長をすごく感じるところなのよ。

あとね、戦場で村人を助けたあと、アシタカの右腕のあざが濃くなっていた描写があったの。あれってきっと、「怒りや恨みに心を動かされると、呪いも深くなる」っていう象徴だったのかもしれないわよね。

あと、旅の相棒はヤックル(アカシカをモデルにした幻獣で、アシタカの忠実な相棒)。ああいう相棒って、ほんと頼りになるのよね。

相関図②|タタラ場と森──サンとエボシ御前の激突

アシタカがたどり着いたのは、山のふもとにある鉄の村、タタラ場(エボシのタタラ場は山奥で鉄を精錬する集落。体や心が傷ついた人々を雇用し、自立と共同体を実現していた場所)なのよね。ここでは鉄を精錬していて、人々が力強く働きながら暮らしていたわ。

その中心にいたのが、エボシ御前(タタラ場の指導者であり、女性や病人など、当時、弱い立場と考えられた者たちに手を差し伸べるカリスマ的存在)。彼女は、行き場のない女性たちや病を抱えた人たちも受け入れ、仕事を与えていたの。冷たいように見えて、実はものすごくあったかい人でもあったようね。

ネットでは「エボシはかつて異国で奴隷にされていた」っていう話もあるけど、それが本当だとしたら、だからこそ彼女は「弱い立場にある人間」に心を寄せていたのかもしれないわね。

でもね──タタラ場の繁栄は、森を壊すことが前提にあるの。鉄を作るには大量の木を燃やさないといけないし、森の神々の住処をどんどん削っていくことになるのよ。

だから当然、森の側も黙ってないわけで──そこで登場するのが、サン(人間の娘ながら山犬に育てられ、自らを人間と思わず森の一部として生きる少女)。

サンは、人間として生まれながら、山犬の神・モロの君(森を守る巨大な山犬の神で、サンを育てた“母”のような存在)に育てられた子なの。自分を人間と思ってなくて、完全に“森の一員”として生きてるのよね。

特に、森を切り開くエボシに対しては、命をかけてでも戦う覚悟をもっている。まさに、生きる領域をかけた“真っ向勝負”って感じなのよ。

アシタカは、その2人の間に立たされることになるの。どちらにも理があるし、どちらのやり方もそれぞれの立場を純粋に守ろうとしただけ。決して自分だけの欲とかでうごいたわけではなさそうね。でも、それぞれが“正しさ”のために、誰かを傷つけようとしてしまっているのよね。

ここで注目したいのが、アシタカの立ち位置なの。

最初は、「間に立つ」ってだけだった。でも次第に、アシタカ自身の目線が“曇りなき眼”へと変わっていくのが感じられるのよね。

一番象徴的なのが、エボシとサンが戦っている真っ只中で、アシタカが間に割って入るシーン。本当にしびれるのよ……! 誰かを守るために、どちらかを倒すんじゃなくて、“誰も傷つけない”という選択をする。それが、どれだけ困難な道か。なのに、アシタカはそれを選んだのよね。

そして、彼の右腕の呪い──そのとき暴走しそうになるのよ。怒りや感情に引っ張られそうになるけど、なんとか持ちこたえるの。あれはまさに、「心の中のタタリ神」との戦いだったのかもしれないのよね。

ちなみに、この場面でエボシにこう言われるの。「その右腕は、私を殺そうとしているのか?」って。アシタカは答えるのよ。「呪いが消えるのなら、私もそうしよう。だがこの右腕、それだけでは止まらぬ」と。

エボシだけじゃなく、人間全体に対する怒り──森を壊してきた存在そのものに対する、悲しみと憤り。それが、右腕に宿ってるのよね。でも、アシタカはその怒りを“誰かを傷つけるため”に使おうとはしなかった。

そこに、彼が「共生の道」を選びはじめた兆しがあったように思えるのよね。

相関③|神の領域──シシ神と自然の逆襲

タタラ場と森の対立の先にあったのが、神々の住む“禁断の領域”。そこに君臨するのが、森の神の中でもとびきり特別な存在──シシ神(森に生きる神々の王。昼は鹿の姿、夜は巨大なディダラボッチとなり、生と死を司る超越的存在)なのよね。

昼は鹿のような姿、夜は巨大な夜叉(ディダラボッチ)となり、命を与え、命を奪う。「生と死を司る神」って、なんだか難しい響きだけど、要するにシシ神は、まるで“自然そのものが姿を持って現れたような存在”とでもいえばいいのかな。

優しくて、静かで、でも一度怒れば容赦ない。まるで自然界そのもの。雨が恵みをもたらす一方で、嵐はすべてを奪っていく…そんな感じをうけたわね。

そんなシシ神に目をつけたのが、ジコ坊(表向きは旅の僧侶だが、実は師匠連という武装勢力に属する策略家で、シシ神の首を国家権力に渡す任務を負っている)率いる“師匠連”という武装組織。

彼らの目的は、シシ神の首──つまり命の源を手に入れること。その力を持てば、人の世界をコントロールできると考えていたのよね。

でも、その行為が自然との均衡を一気に壊していくことになるの。この段階で再び登場するのが、イノシシの神・乙事主(おっことぬし/かつての勇猛な猪神で、イノシシの軍勢を率いる長老的存在)。彼もまた、人間たちによって森を追い詰められ、ついにはタタリ神と化してしまうの。

ここで注目したいのは、アシタカの行動の“違い”なのよ。村でナゴの守に出会ったときは、矢を放ったアシタカ。でも乙事主に対しては、攻撃しなかったのよ。サンを取り込まれようとしていたから、もちろん必死にはなっていた。でも、心の底には敬意を持って、悲しみをもって寄り添おうとしていたんじゃないかな。それが、サンを救い出すことが、乙事主への攻撃に転じなかった理由なんじゃないかと思うの。

そうだとしたら、この違い、すごく大きいわよね。ナゴの守に矢を放ったとき、アシタカは「誰かを守る」ためだった。でも、それは“怒り”にも似た感情が混じっていたのよね。

一方で乙事主に対しては、怒りを捨て、“ただ共にいる”という選択をしたということかしら。このときのアシタカ、明らかに何かを“乗り越えて”いたのよ。あの右腕の呪いも、それを受け入れながらも、心の中では少しずつ癒えていってる感じがしたのよね。

そして、シシ神の首が落とされたその瞬間、世界は完全に崩壊する──。森は死に、人も死に、空気すら濁って、すべてが終わるような感覚に包まれるのよ。ジコ坊は「死に食われぬことだ」と言ったけど、それって“死を恐れるな”ってことじゃなくて、「死に支配される(死の事ばかりを考える)生き方をするな」っていうメッセージだったのかもしれないと感じたわ。

死を恐れ、怒りを抱え、恨みに生きる。その生き方が、どれだけ自分を壊してしまうのか。アシタカも、乙事主も、そしてかつてのナゴの守も、そのことを体現していたのよ。でもね、それでも希望はあるのよ。

アシタカとサンは、必死でシシ神の首を奪い返し、返そうとする。その姿が、どこまでも「命を諦めない」という意志に満ちていて、胸を打つのよね。

相関④|破壊と再生──それでも生きろ

シシ神の首を返したとき──世界がほんの一瞬、静かになったのよね。暴れ狂っていた生命のエネルギーが、ゆっくりと空に吸い込まれていく。

そのあとに残ったのは、焦土と化した森と、立ち尽くす人々。そして、小さな命の芽吹き──。シシ神(ししがみ/森に生きる神々の王であり、昼は鹿の姿、夜は巨大なディダラボッチとなる。生命を与え、また奪う存在)は怒り狂って消えてしまったけど、その“消えたあと”に、新しい何かが生まれる兆しを残していったのよね。

でもそれは、ただ時間が経てば回復するって話じゃないの。再生は、“壊したあとに勝手に戻るもの”じゃなくて、「どう向き合うか」にかかってるのよね。

アシタカ(本作の主人公。エミシ族の青年で、呪いを受けながらも世界の真実を探る旅に出る)は、右腕に受けた呪いを完全に消すことはできなかった。それってつまり、まだ彼の中に「怒り」や「恐れ」が、ほんの少し残っていた証拠だったのかもしれないわね。

でも、だからこそリアルだった。呪いって、ポンと消える魔法じゃなくて、心の在り方で少しずつ溶かしていくものなんだと思うの。

彼の右腕は、もはや彼を蝕まない。でも痕跡は残ってる。その「あざ」こそが、彼の旅と成長のしるしになっているのよ。

それから──エボシ御前(タタラ場の女性首領。女性や病人など社会的弱者を受け入れ、新しい人間社会をつくろうとするリーダー)。彼女はすべてを失ったあと、「もう一度やり直そう」と言うのよね。

タタラ場(鉄の精錬によって生計を立てる山間の村。女性や病人に職を与え、共同体として成立している)の人々も、焼けた大地からまた立ち上がろうとしている。“再生”って、そういうことなのよ。壊れたから終わり、じゃない。「痛みを知ったからこそ、もう一度、誰かと共に生きようと思える」──それが再生の始まりなのかも。

そしてサン(山犬に育てられた人間の少女。森の一員として人間社会を否定し、自然と共に生きる道を選ぶ)。「私は人間にはなれない」と言って、森に戻る決断をするのよね。

アシタカも、タタラ場に残る。2人は一緒には生きられない。でもアシタカは言うのよ。「サンはサンが生きる場所で生きればいい。僕はタタラ場に住む。でも、会いにいくよ」って。これ、すごく力強い愛の形ね。

相手の世界を奪わない。変えようとしない。尊重して、ただ見守る。必要なときに、そっとそばにいる。「曇りなき眼で見る」って、そういうことなんじゃないかしら。

自分の欲で誰かを動かすんじゃなくて、ただその存在をありのままに見つめて、愛すること。この物語の最後に残されたのは、そんな風にして、つらいことも多いんだけど、それでも生かされている間は生きろというメッセージだったように感じたわ。

ほんとうの再生って、自分の足元ばかり見てるんじゃなくて──周りにある命を、世界を、まるごと大事にしようとしたとき、ようやく始まるのかもね。優しくて、でもものすごく強い。『もののけ姫』って、ママにとってはそんな映画でした。

まとめ|曇りなき眼で、世界を愛する

『もののけ姫』って、ただの冒険ファンタジーじゃないのよね。

怒りや痛み、呪いや恨み──そういうものをまるごと抱えながら、それでも「誰かと共に生きたい」と願う心を描いた物語だったのかしら。

アシタカが旅の中で学んだのは、「正義」に固執することじゃなかった。

たとえ呪われていても、自分の感情に曇らされそうになっても、それでも目の前の命を慈しむ──それが「曇りなき眼」で見るということだったと感じたわ。

誰かを裁くんじゃなくて、理解しようとすること。自分の欲をぶつけるんじゃなくて、相手の存在を受け入れること。

そして何より、「争いが何も生まない」ということを、ちゃんと“実感”として受け止めたアシタカの姿に、ママはぐっときちゃったのよ。

ジコ坊は「死に食われぬことだ」と言ってたけど、それって、「生きることから逃げるな」って意味でもあるのかな。

悲しみも、怒りも、そして失うことも──全部まるごと背負って、それでも生きる。それでも、他者を愛する。

それが、この物語が教えてくれた、一番大切なことだったんじゃないかしら。私たちも、日々の中で、きっと少しずつ“呪い”を受けてるのかもしれないわね。

イライラしたり、怒ったり、誰かを責めたくなったり。そういう時ほど、「この右腕、それだけでは止まらぬ」って、アシタカの言葉を思い出したいの。

一歩立ち止まって、深呼吸して──曇りなき眼で、目の前の世界を見てみたら何かが変わるのかも。もしかしたらそこには、争うべき相手なんかじゃなくて、ただ“わかってほしい誰か”がいるだけかもしれないから。

そう思えたら、きっと世界は少しやさしく見えるかもしれないわね。ママもね、今日からまた曇りなき眼で、家族と世界を見つめてみようと思うの。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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