バケモノの子の相関図!白鯨が意味するものは何?

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この記事はネタバレ情報やあらすじを含みます。未視聴の方は特にご注意ください

『バケモノの子』を見ていて、「白鯨って何の意味があるの?」「相関図で登場人物の関係を整理したい」と思った方、ここで一度まとめておきましょう。

作中で蓮のそばに置かれたメルヴィルの『白鯨』は、実は“心の闇”を象徴する大きなモチーフ。熊徹・九太・一郎彦の関係にも深く関わってきます。

この記事では、相関図を使いながら、白鯨が物語で果たした役割、登場人物たちが抱えた闇と光のテーマをわかりやすく整理していきます。

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目次

相関図①|蓮のそばに置かれた一冊白鯨が示す“心の闇”

バケモノの子。うううん、バケモノが産んだ子供ってこと?とか、冒頭から色々頭の中をいろんな推測が駆け巡るんだけど、物語が始まって13分。

百秋坊という豚に似たバケモノと多々良というおさるさんに似たバケモノがこう言ったことで、この物語の世界観の基礎の基礎がなんとなくわかった。

「神にもなれる我らバケモノと、なれぬ人間とでは、生きる世界が違う」「哀れな人間を見物に出かけた時、…」

まあ確かに、神様のもとに帰ろうとする修行僧や宗師様と呼ばれるような存在が、一般の人にも多くあがめられているような世界は、この世の世界とはちょっと違う感じよね。

そのバケモノたちが住む世界が、この人間が住む世界より上位に位置している設定なのかな。

このバケモノたちの世界に迷い込んだ、まだ年端もいかない男の子、

彼が迷い込んだのがこのバケモノの世界。でも、たまたま迷い込んだわけではないの。

ここではまだ詳しくわからないけど、彼の両親は離婚していて、母親と暮らしていたようなの。

その母親は事故で亡くなってしまったらしい。

独り身となってしまった蓮は、その家系の中で唯一の男の子。

そんなことから親戚が蓮の面倒を見ようとはしてくれるんだけど…正直、蓮じゃなくても「あそこには行きたくない」と思ってしまうくらい、人間のいや〜な部分を遠慮なくぶつけてくるのよね。

蓮はそこから逃れたくて、一人街をさまよっていた。

そんな彼と「哀れな人間を見物に来た…」バケモノが出くわし、バケモノは蓮を「弟子」にするって言い出すの。

このバケモノ、熊徹って名前なんだけど、とても粗野な感じの熊みたいなバケモノ。

バケモノバケモノって、なんだか響きはとっても悪いんだけど、彼、そうはいっても、次期「宗師」候補なの。

宗師というのは、神様の世界に行くことができる、まあ、心のランキングみたいなものがあったとするなら、最上位に位置するような存在なのよね。

バケモノたちと人間との大きな違いは、どうやら心に闇を抱える可能性の有無にありそうね。

とはいえ、バケモノの世界でも、イケずをしたりする輩が普通にいるみたいだから、みんながみんな神様に近い存在とかそういうわけでもなさそう。

でも、心に闇を抱き、その闇に四六時中とらわれてしまうほどのものはいない…そんなレベルの世界なのかもしれないわね。

そんな世界に住むバケモノの熊徹が、勝手に名付けた九太(蓮)を弟子にとると聞かないんだけど、それを知った猪王山(いおうぜん)は絶対にやめろというの。

そもそも弟子をとれと言ってきたのは宗師で、宗師自身は人間の弟子をとることに反対はしていない。

猪王山は、人間が心に闇を抱えることを懸念しているんだけど、宗師は「全ての人間が闇を抱えるわけではあるまいて」って。

猪王山は、後に描かれるように、自分の息子の心が闇を抱えていることに気づいていたのかもしれないわね。

そして、その闇は、自分たちの手に負えないほどに厄介なものであると。

それにしても、ほんの一晩の付き合いだったんだけど、九太の中に熊徹への思いというものが生まれたようね。

熊徹はバケモノ世界では百秋坊(ひゃくしゅうぼう)と多々良(たたら)を除いては誰一人味方する者がいない孤独な存在。

猪王山との対決の場で、九太は熊徹の身の上の一端を垣間見て、どこか共感するところがあったのかもしれないわね。

ところで、蓮の周りには「白クジラ」「白鯨」という本が描かれる。

この白鯨、どうやら結構なテーマにつながっているようなの。

というのも、このメルヴィルの『白鯨』って、“心の闇にとらわれた男が、自分を壊すまで復讐にのめり込んでいく物語”らしいの。

白鯨に片足を奪われたエイハブ船長は、その痛みをどう扱っていいかわからなくなり、やがて白鯨そのものを“世界の悪”みたいに見なしてしまう。

痛みによる恨みの矛先が外に向かいすぎて、その心の空洞がどんどんふくらむ…そういう破滅の道をたどる話なのね。

蓮(九太)も、心の傷を抱えている。物語が進むと、蓮のほかにも心に傷を抱えている少年が登場する。彼らの、その穴が、放っておくと一気に広がってしまう危うさは、バケモノにはない人間特有のものとして描かれているの。

「心の痛みは普通にしていると闇に向かいやすい。自分でそれを断ち切るという決断が必要」という、この物語全体のテーマにつながった本として描かれていたんじゃないかな。

九太が抱えた喪失感。後に出てくる一郎彦が抱えた正体への不安。そして、熊徹でさえ持っていた孤独。この映画の中では、その闇にどう対処していくのかというのが、白鯨の物語と対比させるように描かれているのかもしれないわね。”

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相関②|九太の弟子入り 九太の弟子入りと“胸の中の剣”

九太が熊徹に弟子入りすることを決めたんだけど…いや、何ともかわいらしい。

幼少期の九太の声は宮崎あおいさんがやっているんだけど、熊徹が教える「こうぎゅっと握って、ぎょえーって」って教えを、そのまんま声に出しながら剣に見立てた棒を振り回すの。その時の声が、もうかわいらしくって。

九太は9歳。男の子の9歳なら、こんなかわいらしい声も出るかもね。で、やっぱり、その頼りなさそうな声の通りで、その調子ではいつまでたっても剣の上達は見込めそうにない。

周りから懇切丁寧に教えろという声もあって、熊徹が九太にかけた言葉は「胸の中で剣を握るんだよ。あんだろ!胸の中の剣が!胸の中の剣が重要なんだよ」って。

九太はそんなもんあるかって、そっぽ向いてしまう。これが人間界と、それより一歩進んだバケモノ界の違いなのね。

心の中の剣っていうのが、バケモノ界ではきっと当たり前に存在しているに違いない。きっと心の中のよりどころのようなものよね。

そこに意識を集中して…そういえば、宗師が言っていたわよね。人間がみんながみんな闇にのまれたしまうわけでもなかろうって。

この心の中の剣っていうのが、きっと、闇にのまれないための鍵に違いないとおもうのよね。

ところで、弟子入りを決めて、怪物たちの町での日常が始まった九太の前に、一郎彦、二郎丸という兄弟が現れる。

猪王山の子どもということで、二郎丸の方はイノシシ風の顔なんだけど、お兄ちゃんの一郎彦は人間のこともがイノシシ風の帽子をかぶった姿。彼は人間の子だった

ところでさ、時折九太の前に母親の姿が現れたり、声がきこえたりするのよね。「なり切る。なったつもりで」って。

もうこの頃の九太はとっても素直なんだよね。最初は、熊徹の行動を見たままにマネする日々。

最初はそれが鬱陶しくて拒絶態度の熊徹だったんだけど、九太の素直な心が伝わったんでしょうね。

マネする九太のことがかわいく思えてきたみたい。すると、二人の思いが繋がったせいかしら、九太、ついには、熊徹の姿が見えないところでも、熊徹の動きが感じ取れるようになってしまったの。

これって、見えない世界の話よね!どこかが繋がったから、その相手の動きが感じ取れるようになったに違いない。

熊徹は、ある意味、この時すでに、九太の心の一部になっていたと言えるかもしれないわね。

このあたりから、二人の関係が面白いことになるの。自分から相手に合わせに行った九太は、相手の動きが読めるようになった。

一方の師匠だったはずの熊徹は、相手に合わせるというのは大の苦手。

いつも一人で、何とか生き抜いて強くなってきた熊徹だから、周りとの協調というものがかけていたのよね。

そして今、それを九太から学ぼうとしているの。一方の九太は相手に合わせていこうとするから、相手のことがよくわかり、それがいざ戦いとなった場合には、自分の強さとなっていたの。

その急成長ぶりには目を見張るものがあり、”弱いやつが嫌い”と言っていた二郎丸が九太にほれ込むほどにつよくなっていた。

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相関③|白鯨の意味と楓の言葉が示す“自分との戦い”

17歳になった九太、たまたまなのか、必然なのか、人間世界に戻る道を見つけたようなの。

そして運命の出会いがそこで起こるの。高校生の。彼女の力も借りながら読んでいる本は例の白鯨。

楓はこう言っている。主人公は片足を奪った白鯨に復讐しようとしているけど、それは自分自身と戦っているんじゃないかなって。

クジラは自分を映す鏡で、…って言うんだけど。高校生って、ママからしたら子供のように思えるんだけど、もうこう言った考えに至るような年齢なのよね。

ママは白鯨は読んでいないから、楓の言葉の解釈は推測に過ぎないんだけど、白鯨は自分の心の中の闇が、目の前に象徴的な出来事として起こったものととらえたのかなと感じたわ。

実際には、クジラが足を奪っていく以前から、その主人公は心の中に闇を抱えていたんじゃないかしら。

そして、この映画の言葉を借りれば、彼はその闇にとらわれていたんだと思うの。

もしかしたら、人々が日常経験することになる苦しい出来事の多くは、そういった闇にとらわれた心が呼び起しているのかもしれない。

主人公は、目の前に現れた白鯨に恨み晴らさんとするんだろうけど、実際には、自分の心を闇から引き離す方法を模索し続けていたんじゃないかな。

白鯨を倒すことが闇から抜け出る方法と思い込んでいたけど、実は、闇から抜け出す方法は、恨み抱えては闇を見続けるのではなくて、何か明るく楽しいことに目を向け、闇から目線を切ることにあるんじゃないかしら。

蓮がこの人間世界でやっていくための第1歩が、この楓との関係から生まれ始めたみたいね。

つい5分前まで、バケモノたちの中で棒きれを振り回してばかりいた九太だったけど、大学受験やら、離れ離れになって、どこに住んでいるのかも知らなかった父親との再会など、この世界での軌道が急激に展開し始めた。

この蓮の父親というのは、ウィキペディアによると、どうやら無理やり家族との縁を引き裂かれたみたいね。

やっぱりあの親戚たちは相当な人たちだったみたいね。でも、この展開、熊徹が知らない世界での蓮の活動が増えれば増えるほど、熊徹たちがいるバケモノ世界から九太は遠のくことになるのよね。

熊徹は九太に言った。お前の目的は強くなることじゃなかったのか!って。そして、九太は「強くなった」って応えるの。

バケモノ世界の生活がどのように成り立つのか知らないんだけど、目指していたのは、肉体的な強さもあるんだろうけど、真に求めていたのは心の強さよね。

これは、心の中に剣をもてという言葉にも現れているんだと思う。まだ、完全に心が強くなったわけではない。でも、いつか心の中に強さが宿ったとき、きっと九太の生きていく場所は、この人間世界になるんだろうなと予感させるわね。

でも、まだ蓮の心の中に、剣はなかったみたいね。ママ的には、剣というのは、心集中して見つめれば光ってくれる心の中の光のようなもの。

そこに意識を向ければ、心の闇は去っていく。でも、蓮は、心の中にその確かな光を見つけ切ってはいなかったようね。

最後に、蓮は巨大な白鯨を倒すことになるんだけど、それって、蓮が意識を心の中の光に集中したことで、闇の象徴であったクジラが消え去っていったんだと思うの。

その光というのは、この物語の中では熊徹が九十九神として化した剣と描かれた。

彼が、心の中に確かな光を見出すことができるのももうじきね。蓮が闇にとらわれた時、とてつもない恐怖に襲われていたように描かれていたわね。

楓は、「蓮だけじゃない。きっと誰でもそう」っていうの。確かにね。そう思う。心や身にとらわれた時、もうどうしようもないほどの不安が押し寄せてくるというのはよくわかるわ。

そしてそれを断ち切ることができるのは自分の意志。その闇に目を向けない、光の方を見るという決断。そんなことが描かれていたようにも思うわ。

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相関④|白鯨とは逆の結末へ ― 九太が選んだ“光の決断”

ところで、現宗師さん、ついに何の神になるか決めたんだって。「決断力」の神様になるんだって。

これって、まさに、光を見るか闇をみるか、その一瞬一瞬、その決断がその人が置かれる状況を決めていく肝の部分よね。

そう、いつまでも闇をみるか、光を見ようと決めるか、その決断力。

宗師はその決断を司る神様になろうというのね。この物語の展開にピッタリの選択よね。

熊徹と猪王山の試合が始まった。序盤の展開は一方的な猪王山優勢ムード。というより、ほぼ勝負が決してしまったかに思えたほど。

ここまで、熊徹の心の中には、闇とは言わないまでも、光が見えていなかったのかもしれないわね。そう、バケモノ界のトップ近くにいる存在にとっても、光は自分の決断によって見なければならないのよね。

その決断が、いついかなる時もゆらぐことなくできる存在というのが宗師なんでしょうね。

でも、この時までの熊徹には、外からの助けが必要だった。そして、それは、その戦いの場に姿を現した九太によってもたらされた。

九太のかけた声によって再び光を得た熊徹は、一気に形勢逆転させたの。でもこのあと、悲劇は起こった。それは映画を見ていただいての通り。さらに、その悲劇を引き起こした一郎彦の闇と同じように、九太も自らの怒り(決断)で闇を解放しようとした。

宗師はその九太に向かって叫ぶ。「闇を拒絶せよ」と。その九太を止めたのは、楓からもらい腕に巻いたお守りだった。

まだ、九太にも「決断」の助けが必要なようね。それでも九太は、今一郎彦のようにならなかったのは、多々良や百秋坊や、みんなのお陰だと。

九太と一郎彦決戦の時。闇の力に押されまくる九太。もちろん、押されまくっているのには理由がある。

それは、自分の心の中に光を見ようとすることを忘れているから。もちろん、こんな切羽詰まった状況で、そんなことをいちいち思い出せる人なんかそうそういない。

それでもそれを思い出せない限り、闇に打ち勝つことはできない。

九太は、自分の心の中を一郎彦を通して目の前に見ることになる。そこに、大きな白鯨。恨みつらみの対象よね。

これに打ち勝つには、九太は心の中の光を使わなければならないの。そして、その光は、またしても外からの助けとしてやってくる。

そう、熊徹が心の中にやってくるの。熊徹が神になることを選んだ時、うさぎ風の宗師は、その決断に迷いはないか、つまり後戻りはできないことを告げる。

物語が進むと、熊徹は剣となったことを知ることになる。一瞬、彼は、剣という動きようもないものに姿を変えるという犠牲的な選択をしたのかという錯覚も覚えるんだけど、そうじゃないのよね。

剣は単なる目に見える形に過ぎない。熊徹は、ゆるぎなく、常に光を見続けるという決断のもとにその選択をして神になったのよね。

剣のカタチなんかに縛られることのない、もっともっと自由で大きなものとなり、九太の心の中に光(剣)をおいてあげたのよね。

そして、九太はその力を借りて、自分自身の心の中の闇の象徴であった白鯨を消し去った。

その力が宿る直前まで、九太は自分の闇で一郎彦の闇をすべて飲み込んでやると言った。これは、目の前に売られたかのように見えた喧嘩を買ってやるって言っているようなものよね。

そこに解決はない。そこに、熊徹の剣が「そうではない」といわんばかりに飛び込んできた。そして、熊徹の剣、心の中の光は、二人の少年の心に宿る闇を切り去ったの。

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まとめ|白鯨が照らした“心の闇”とバケモノの子の物語

『バケモノの子』に描かれていたのは、「心の痛みは普通にしていると闇に向かいがち。光を取り戻すにはそれを見ようという決断が必要」 という、とても人間的なテーマだったのよね。

蓮(九太)は喪失感から、一郎彦は正体の不安から、熊徹は孤独から。それぞれが違う形の“穴”を抱えていて、それを乗り越える道を選んでいった。

作中に置かれた『白鯨』は、その象徴だった。エイハブ船長のように、心の痛みが恨みに変われば闇に落ちるし、その闇を真正面から見れば飲み込まれてしまう。でも、光を見ると決めるだけで、道は一気に変わる。

前の宗師が最後に「決断の神」になると選んだように、九太が楓の声や仲間の思いを頼りに光へ向かったように、人は誰でもその一瞬の選択で生き方が変わっていく。

白鯨は倒す相手じゃなくて、心がどちらへ向いているのかを気づかせてくれる鏡みたいな存在だったのかもしれないわね。

今日も最後までご覧いただいて、ありがとうございます。

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