「肝心なことは死に食われぬことだ」ジコ坊の名言やセリフに見る“恐れ”と“愛”の選択【もののけ姫考察】

この記事はネタバレ情報やあらすじを含みます。未視聴の方は特にご注意ください

ジコ坊のセリフ「肝心なことは死に食われぬことだ」──この言葉、なかなかスルーできないんですよねぇ。

パッと聞いたときは「そりゃまあ、死にたくないよね」って思ったんだけど、何度も見返すうちに、「これ、実は“恐れ”と“愛”の話なんじゃないか?」って、そんなふうに感じるようになったんです。

目次

ジコ坊の言葉は“生き方”への問いかけだった?

映画の中で“死に食われた存在”ってしっかり描かれてるの。たとえば最初に出てくるタタリ神になった猪のナゴの守。モロが言ってたけど、「あの猪は死を恐れたのだろう」って。死を前にした恐怖が怒りに変わって、その怒りが呪いになって、最後は自分の意志すらなくしてしまう──まさに“食われて”しまったのよね。

どれだけ強い神さまでも、恐れに飲み込まれたら、自分を保てなくなるっていう物語上の設定なのかしら。だとするなら、人間なら、なおさらよねって思うの。

だからジコ坊は、あの軽い調子のままに「肝心なのはそこだ」って伝えてくれたのかもしれないわね。しかも「師匠の受け売りだがな」なんて軽く言ってたけど、本当は彼自身がその言葉を、身をもって感じてきたんじゃないかって思うのよね。

これはママが別の本とかから聞きかじった受け売りなんだけど(笑)、死だとか恐れだとか、そのことを考える限り、どうしても飲み込まれるというのね。じゃ、どうすれば飲み込まれないんですかっていうと、そのことを意識的に考えなくするんだって。

実は、この心のコントロールこそが、心穏やかに保つ秘訣と書かれていたわね。つまり、心穏やかであれば、もちろん恐れは感じていないということよね。その状態って、結構幸せじゃないかしら。

心が恐れを見つめようとしたとき、意識して別のことを考える。また心が引っ張られようとするんだけど、それでも別のことを考える。その本はね、心の中の神様に「神様!」って言えばいいと言っていたわね。受け売りよ(笑)

話し戻して、ジコ坊って、一見すると俗っぽくて現実的な人に見えるけど、どこかでちゃんと“真理”みたいなものを知ってる人だと思うわ。そういう人物がこのセリフを言うからこそ、逆にすごく重たく感じるのよね。

“まだ曇りなき眼を持たぬ者”の限界と、その覚悟

「死に食われぬことだ」──ジコ坊のこの一言は、アシタカの旅のはじまりと、その核心を示していたようにも思うのよ。タタリ神と化したナゴの神に対峙したとき、アシタカは矢を放った。

礼を尽くしていたし、心から祈るような気持ちだったけれど、それでも彼は妹を守るために“攻撃する”という選択をとったのよね。

呪いを受けるとわかっていても、矢を放った。ヒイ様にそのあざが骨に達して命を奪うと告げられたとき、アシタカは答えるの。「矢を放ったとき、心を決めました」と。

その決断には恐れがあったと思う。でも、後悔はきっとなかった。なぜなら、あの瞬間の彼には、それしか選べなかったから。

そうするしかなかった自分の“限界”を、彼はきちんと受け止めていたのよね。今の自分には、それが最善だったと受け入れて、その結果に責任を持つと決めた。

それが彼の「心を決めた」という言葉の意味だったのかな。

でもここで見逃しちゃいけないのは、この時点のアシタカは、まだ“曇りなき眼”を持っていなかったってことなの。彼がとった行動──それは「誰かを守る」ことだった。

でもその裏には、「誰かを倒す」っていう前提があったのよ。敵と味方に分けて、どちらかを守る。これは善悪がどうという話じゃなくて、それが彼の“限界”だったということ。

世界を分けて見る以外の方法を、彼はまだ知らなかったのよね。だからこそ、自分がどちらの味方になるか、どちらを敵と見なすか、そうやってしか動けなかった。

それを彼自身、なんとなく理解してたんじゃないかしら。だから「心を決めた」っていうのは、「この選択がもたらすものすべてを受け入れる」ということだったのよね。

でも、その先で彼は学んでいくの。エボシとサン、たたら場と森、対立し合う二つの世界。そのどちらもが、ただ必死に生きているだけだった。誰も悪人なんかじゃないし、正義も一方通行じゃない。

アシタカは次第に、どちらにも肩入れしない、どちらも攻撃しないという生き方を身につけていったように感じたわ。気がつけば、彼の視線には“線引き”がなくなっていたのよ。

それが“曇りなき眼”だったんじゃないかしら。そしてその視点を得たとき、呪いは解かれ、命を終えるはずだったアシタカは生かされた。シシ神が彼に命を返したのは、彼が恐れを乗り越えたからではなく、“分けないまなざし”を手に入れたからと解釈したわ。

それこそが、ほんとうの“死に食われぬ”生き方だったんじゃないかな。

揺らぎながらも、共に生きようとする強さ

ナゴの神に矢を放ち、呪いを受けたアシタカは、「心を決めた」と言った。でもその決断は、まだほんの入り口だったのよね。西国に向かい、彼が出会ったのは、人と森がぶつかり合う世界。サンは牙をむき、エボシは銃を手にしていた。

最初のアシタカは、その間に立とうとしていたけれど、実はまだふたりの“本当の想い”までは見えていなかったのかもしれないわ。

たとえば、エボシがたたら場をどう思っているのか。サンが森に命をかける理由は何なのか。彼は途中、エボシに対して「まだやるつもりか!」と怒りをぶつけてもいるのよね。

それは、たぶん彼がまだ“人を責める視点”を捨てきれていなかった証だったと思うの。でも、それでもアシタカはふたりを諦めなかったのよ。

怒っても、迷っても、それでもなお“理解したい”という気持ちを手放さなかった。

たとえば、たたら場で「たたらの作業を見せてほしい」と言い、自らその重労働に加わった場面。あれは、たたら場の人たちがどうやって生きているかを、頭ではなく自分の身体で理解したいという思いの現れだったのよね。

サンのことも同じだった。彼女がどうして森を守ろうとしているのか、その怒りの奥に何があるのか、それを知ろうと彼は何度も言葉を投げかけた。

アシタカの愛は、最初から完璧だったわけじゃない。どちらかに傾きそうになることもあったし、どちらかを疑ったこともあった。

でも、その揺らぎの中で、彼は少しずつ、“否定しない”という選択を育てていったのよ。サンとエボシが命を懸けて戦っているとき、彼はその両方を見つめていた。

どちらかを止めようとするのではなく、どちらの命も守りたいと願っていた。その視線の先にあったのは、善悪でも勝敗でもなく、他者を生かそうとする、それぞれの切実な想いだったのよね。

だからこそ、彼はシシ神の首を返しに走ったの。何かを奪えば、命の流れは断たれる。でも、アシタカは知っていたんだとおもう。

奪ってしまったものがあるのだとしたら、それに対してできる唯一のことは、返すこと。与えること。奪ったものを与えなおすことでしか、新たな命は生まれないってことを。

だから彼は、誰かを裁くためでも、争いに勝つためでもなく、命をつなぐために首を運んだのよ。どちらの味方になることもせず、ただその場に立ち続けたアシタカの中には、もはや「分ける目線」はなかったんじゃないかしら。

恐れや怒りに動かされることなく、すべての命を見つめていた。それこそが“曇りなき眼”だったと思うの。

そして、その在り方に触れたからこそ、シシ神は彼を生かしたのよね。でもその時、アシタカの中の呪いが完全に断たれたわけではなかった。

右腕のあざは、うっすらと残っていたの。それはきっと、“まだ学びの途中”だから。共生という心は、ようやく芽生えはじめたばかりで、まだ定着しきったわけじゃない。

人と人、人と自然が本当に共に生きるということは、頭で理解するだけじゃ足りないのよね。その都度、目の前の誰かと向き合って、思いやって、何度も選び直していくものなのよ。

だからこそ、アシタカは生かされた。「お前はまだ歩くべき道がある。だから生きなさい」と。共に生きるというのは、完成された誰かになることじゃない。

目の前にいるその人のことを、思いやって生きていくこと。そのとき、誰かを責めずに、誰かの声を聞こうとすること。アシタカはきっと、これからもそんなふうに生きていくんじゃないかしら。

共に生きるって、やっぱり簡単じゃない──それでも、隣に立ち続けるということ

アシタカが「共に生きよう」と言ったとき、サンはこう答えたのよね。「アシタカは好き。でも人間を許すことはできない」──この言葉に、共生の難しさがぜんぶ詰まってると思うの。

アシタカの目にはもう怒りも分断もなかった。森もたたら場も、サンもエボシも、すべてをまっすぐに見つめていた。でもサンは、そこまでまだ来てなかったのよね。

彼女の中にはまだ、森を焼かれ、神を殺されてきた記憶があった。人間を信じられない理由が、身体の奥深くに残ってたのよ。

だから「一緒にたたら場に行こう」とは言えなかったし、「許す」とも言えなかった。でもそれでも、「好き」と言ったの。それがサンの精いっぱいだったんだと思うのよ。完全には許していない。

でも、アシタカだけは違う。そう信じてるからこそ、サンは森に残った。アシタカも、それを押しつけることはしなかったのよね。たたら場で暮らそうとか、一緒に歩こうとか言わなかった。

ただ「また会いに行く」とだけ言った。その言葉の中にあったのは、“一緒にいなくても、隣に立てる”という思いだったと思うのよ。共に生きるって、同じ場所で暮らすことじゃないのよね。考え方が違っても、許せない過去があっても、どこかで「それでも隣にいたい」と思い続けること。

アシタカとサンは、物理的には別々の場所に暮らすことを選んだけど、心の中ではちゃんと「共に生きる」ことを始めていたんじゃないかしら。

それは、誰かの価値観を無理に変えることじゃなくて、その人がその人でいられるように、そっと隣で立ち続けるということなのよ。

きっとサンはこれからも森を守り続けるし、人間を警戒する日々が続くかもしれない。でもアシタカは、そのすべてを理解しようとする人であり続ける。

サンが怒っているときも、傷ついているときも、きっと彼はまた森に会いに行くのよ。そしてサンも、森の中でふと風の音に耳をすませながら、アシタカのことを思い出すんじゃないかしら。

物語の簡単あらすじや相関関係について知りたい方はこちらでどうぞ

まとめ|「生きろ」とは、思いやりの心と共に歩むこと…だったのかな

『もののけ姫』で語られる「生きろ」という言葉。それは決して「つらい現実に耐えろ」と言っているわけじゃないのよね、きっと。むしろこの言葉には、「思いやりの心を持って、目の前のことや人に応接しなさい。そこには恐れはなくなるから」って、そんな思いが入っているような気がするの。

アシタカが「生きろ」と言ったのは、サンに未来を背負わせるためじゃない。「あなたのままでいい。怒りも、迷いも抱えたままで。だけど、その心の中にある思いやりを、なくさないで」と語りかけているように思える。

生きるというのは、どこか遠くにある“目的”を追いかけることじゃなくて、目の前の人や物に対して思いやる心を持って、今この瞬間を共に過ごすこと。

その優しい在り方のなかには、恐れや痛みが入り込む隙がなくなってくる──「それでいいんだよ」と、この映画はずっと私たちに言ってくれている気がするのよね。

分け隔てる心を手放して、いま、そばにいる誰かを思いやる。ただそれだけのことで、世界はほんの少し、癒されていくのかもしれないなと思いました。

今日も最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。

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