スティッチを「犬」だと言い切り、ナニの“吸血鬼”発言を「だと思った」と返し、暴れん坊に「天使よ」と名づけたリロ。
彼女は、“目の前の誰かをまるごと受け入れる力”を持っていた。
今回は、そんなリロのやさしさと、その奥にある“心の器”を見つめていきます。
コリーだった犬?スティッチに込めた“受け入れる力”
「それ、本当に犬?」って聞かれたときのリロの答え、覚えてますか?「犬よ。昨日まではコリーだったけど、車にひかれてこうなったの」
──これ、どう見ても犬じゃないスティッチに対してのセリフです(笑)。だけど、この言葉、実はものすごく深そうです。
普通だったら、「いや、どう見ても犬じゃないでしょ」って内心同意してしまいそうな場面。でもリロは、「犬だよ」って言い切る。しかも理由づけまで完璧(?)!
これって、子どもの発想に見えて、じつは**“あなたがそうありたいなら、私はそう受け止める”**っていう、ものすごく高い受容力と想像力の表れような気がするの。
スティッチは、宇宙から来た暴れん坊で、見た目も行動もまるで破壊兵器。でもリロは、そんなスティッチを「昨日まではコリー」と受け入れた。
「どんな過去があっても、今ここにいるあなたを認める」って、そういう目でスティッチを見てたんです。
そしてこれ、現実の大人にはなかなかできない対応なんですよね。ついつい「正しさ」や「本当かどうか」で判断しちゃう。でもリロは、“それを信じたい気持ち”を大切にしてあげてる。
それってつまり、「安心できる場所」になる力なんじゃないかな。まだ暴れ者だったスティッチが、リロのそばにいたくなるのも当然かもしれません。
「吸血鬼の仲間になれって脅されたの」に、「だと思った」と返した優しさ
バイト先をクビになって帰ってきたナニとリロのやりとり、これもほんとに名シーンです。
ナニは、スティッチが騒ぎを起こしてしまったことを責めずに、
「違うわよ。あの店長は吸血鬼で、どうしても私に仲間になれって脅したの」って、まさかの“吸血鬼ネタ”でリロの心を守ろうとします。
──で、それに対してリロが一言。
「だと思った」
いやいや、そんなわけないじゃん!!って笑いたくなるけど、この「だと思った」が、ママはほんとうに大好きなのよ…。
リロは、たぶん店長が吸血鬼じゃないことなんて、頭ではわかってる。
でも、「それでいいよ」「そういうことにしておこう」って、ナニの優しさをまるごと受け止めたんですよね。
これって、相手の“嘘”の中にある“本当の気持ち”を読み取れる子じゃないと、できない反応なんじゃないかな。
大人が子どもに本音を言えないときってあるよね。子どもも、本当はそれに気づいてる。でも、その本音を責めたりしないで、“うその形で守ってくれたこと”を受け取ってあげるって、ほんとに優しいと思うの。
これ、北野武さんの有名な「幽霊が出ました」エピソードにも通じるものがあるような気が──人って、真剣な場面ほど“ふざけたこと”で相手を守ることがあるんだよね。
そしてそれをちゃんと「受け取ってあげられる人」がいると、世界は壊れずにすむ。リロの「だと思った」は、まさにそういう言葉だったんじゃないかなって思うんです。
「天使」と呼んだのは、リロだけだった
スティッチがまだ暴れ者だった頃、家に帰ってきた3人(ナニ・リロ・スティッチ)。そのめちゃくちゃな状況を見て、ナニはため息混じりに言うのよね。
「天使どころか、犬でもなさそうじゃない」
でも、そのときリロはスティッチのことを、**「天使よ」**って言うんです。
え?天使?この子が??って、思う人も多いはず。でも、ママは思うのよ──リロは、「まだ起きていない優しさ」や「これから出てくる可能性」を、先に信じることができる子なんだって。
スティッチは、今はまだ荒れてる。でも、その奥には“愛されたい気持ち”や“守ってあげたい存在”がちゃんとある。
リロにはそれが、もう見えていたのかもしれない。
普通、大人って“今目に見えてるもの”で判断するんですよね。暴れてる → 危険 → 排除しなきゃ、って。
でもリロは違った。“あなたが今どう見えるか”じゃなくて、“あなたが本当はどんな子か”を先に見ようとしてた。
だから「天使よ」って言えた。名づけって、ものすごく大きな意味があるのよ。“この子は天使”って呼んだ瞬間から、その関係性はもう「信じているもの同士」になってるんです。
スティッチがやがて心を変えていったのも、この“言葉の種まき”があったからじゃないかなってママは思うんです。
リロは“愛されたい子”じゃない。“愛する力”を持ってた子
リロのことを、“変わった子”って思ってた周りの友達や大人たち。友達に呪いをかけようとしてみたり、ぬいぐるみに話しかけたり、魚にピーナッツバターパンをあげたり──大人の目や、大人の目を意識した友達から見れば、「ちょっと普通じゃない子」に見えていたって設定なのかな。
リロは、たしかに「寂しさ」や「孤独」を抱えてた。だけどそれ以上に、「誰かを受け止める力」を持っていた子なんです。
スティッチが“家族って何?”と戸惑っていたとき、バブルスが“子どもを守る責任”にばかり目を向けていたとき、ナニが“自分のことでいっぱいいっぱい”になっていたとき──
リロは、それぞれの人たちに、ちゃんと“自分の場所”を与えていた。
つまり、リロは“癒される側”じゃないんです。すでに“癒す側”にいたんです。
それを私たちは、「変わってる」なんて言葉で片づけちゃいけない。むしろ、リロは“大人たちが忘れてしまったやさしさ”を、当たり前のように持っていた子だったんだと思う。
まとめ|“だと思った”と“天使”でつなぐ、世界を癒す子どもの物語
『リロ・アンド・スティッチ』は、“問題児と暴れん坊が家族になる”成長の話なんかじゃない。本当は、「すでに大きな愛を持った子どもが、まわりの人たちを少しずつ癒して、つないでいく物語」なんです。
- コリーだったかもしれない犬(?)を受け入れて
- バイトをクビになった姉を吸血鬼にされたと笑わせて
- 破壊兵器のスティッチを“天使”と名づけて
- 「だと思った」と返すことで、言葉にならないやさしさを返す
リロは、誰かに守られたいと思ってる子じゃなかった。もうすでに、人を守れる子だった。
そんなふうにリロを見直すと、この映画のやさしさが、さらに心に沁みてくるんですよね。
今日も最後までご覧いただいて、ありがとうござます。
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