この映画、見終わったら「明日はあの人のこと、許さないとね」っていう気持ちになってた。つまらないことに、なんでいつまでも執着してたんだろって。ママにとっては、そんな気分にさせてくれる映画でした。
今日はそんなコナンの物語を、ゆるーく追いながら、考察をちりばめつつ見ていきたいと思います。
相関図①|毛利小五郎が6年前に関わった事件「風林火山」とは?

風林火山の物語は、この隻眼の残像のオープニングで描かれた雪崩のシーンより後の話なんだけど、さらにその後にあたる現在では、敢助は幼なじみでお互いに意識し合っていた上原由衣と行動を共にしている。
でも、この上原さん、一度刑事をやめているのよね。
なんでやめたかっていうと、10カ月前の雪崩で勘助が死んだと思い、ある事件の真相を突き止めるために別の男性と結婚することを選んだから。
でも風林火山の中でその結婚相手も亡くなり、敢助に背中を押されて刑事に復職し、この物語の現在に至るって感じ。
ところで、今回の犯人のうちの一人を過去に逮捕していたのが甲斐巡査という人物。
そして、男の供述によって翌日、もう一方も逮捕された。
コナンファンの皆さんは、風林火山の中で描かれた甲斐巡査の人柄を、この短いシーンの中でも思い返したかもしれないわね。
小五郎さんたちは当時のことを教えてもらうのに甲斐巡査を訪ねればいいのかと言っていたんだけど、甲斐巡査は風林火山の回で、すでに亡くなっていたのよね。
6年前に甲斐巡査が山で転落死した理由、それは彼が流鏑馬の射手として優秀すぎたがゆえに邪魔な存在とされ、犯人側が銃で妨害しようとしたことで、馬ごと崖下へ転落して命を落としてしまったの。
この現場を目撃してしまった人たちがいて、真相が表に出るのを恐れた犯人が口封じのために連続殺人を起こした——それが「風林火山」という事件。
あと、諸伏高明と大和敢助の関係。
初登場のシーンでは、高明が行方不明で死んだと思われていた敢助を山梨県側の病院で見つけ出していたのよね。
そのシーンはさらりと描かれていて、彼らの特別な関係はそこだけでは見えてこなかったんだけど、でも考えてみると、敢助の無念とも思える犯人取り逃がしの仇を討ち、さらに皆が死んだと思っていた敢助を他府県の病院で見つけ出したということは、高明は敢助が死ぬような男ではないと心の底から信じていたということよね。
だって、彼を誰よりも強く思っていたはずの上原由衣ですら、敢助の死を受け入れてしまうほどの状況で、別の男と結婚したんだから。
諸伏高明が大和敢助を思うその強さがどれほどのものなのかは、別の物語の中にも描かれているみたいね。
相関②|ザゼンソウを供えた大友(鷲頭)の心中は?
鷲頭(大友)は司法取引で服役を免れたんだけど、その選択自体が苦渋のものだったのかもしれないわね。
彼の雰囲気や物腰からは、彼が自分のトクを考えて司法取引に応じたとは思えない。
彼の中では、刑務所にいるよりも、亡くなられた真希さんをそばで弔いたかったんじゃないかな。
もちろんそのために、御厨の居場所を警察に伝えなければならないんだけど、その時すでに、自分が御厨から命を狙われることになるということもわかっていたように思う。
彼は炭焼き小屋にブッパという名前を付けて、御厨に対して自分を殺害するための目印を残したのよね。
御厨に復讐の機会を与えるつもりなら、さっさと自分から御厨のもとへ行けばいいじゃない…って最初は思ったんだけど、きっと御厨が自分のところにたどり着くまでの間は、精いっぱい真希さんのために時間を使いたかったんじゃないのかな。
大友(鷲頭)は真希さんのお墓にザゼンソウを供えていたのよね。…ザゼンソウってネットで調べてみると、赤紫色のものしか出てこないのよね…
でも、お墓に供えてあったのは白いものだった。
白いザゼンソウのようなものをこれまたネットで調べてみると、水芭蕉…と出てくる。
水芭蕉も長野県では雪解けの頃から咲き始めるみたいな記述もあった…暦的にはもう少し温かくなったころとかと記されてる方が多そうだけど…
ちなみに座禅草の花言葉をネットで調べてみると、「沈黙の愛」「ひっそりと待つ」と出てきた。水芭蕉の花言葉は「美しい思い出」「変わらぬ美しさ」。
大友(鷲頭)の心中を考えると、真希さんを死に追いやってしまった自分が、今さらどんな言葉を並べても、聞く者もいないし、その言葉自体に何の意味もないと感じているのかもしれないわね。
それでも、彼の心の中では、真希さんに向けた言葉にならない思いが渦巻いていたのかもしれない。
真希さんの姿を見ることはもうできなくなってしまったけど、彼女の心が穏やかに安らいでくれることを、心の底から願っていたんじゃないかな。
そして自分は、その場所で、一度逃れた裁きのようなものを待ち続ける、と。
そんな思いを込めたのであれば、ザゼンソウがぴったりだと思うんだけど、それなら赤紫の方だったのかな。
敢助と真希が再び山の中で狙撃される場面があるんだけど、その弾が敢助たちをかすめて撃ち抜いたのが、赤紫色のザゼンソウだったのよね。
でも、鷲頭がその白い花が水芭蕉だと知って、その花言葉とともに彼の気持ちを墓前に供えていたのだとしたら、その思いは「美しい思い出」「変わらぬ美しさ」。
ちょっと状況にそぐわないようにも思えるんだけど、自分が真希さんやその家族にとっての「変わらぬ美しさ」を永遠に奪ってしまったことを悔いて、自分が奪ったものの象徴として墓前に供えていた、そういう線も考えられるかな。
なんかね、墓前に白い花が供えられていたのに対して、その数分後にあえて赤紫色の、いわゆるザゼンソウが描かれていたのを見て、そこに何か表現したいものがあったのかなって、思いをはせてみました。
(でも正味のところ、どっちなのかはわからなかった。ネット記事による識別法の中でも匂いの項目があって、ザゼンソウはあまりいい匂いとは言えないみたい。対して水芭蕉は匂いが良いとあったから、ママ的には水芭蕉だといいな…と思ってますが)
相関③|「人生… 死あり 修短は… 命(めい)… なり」とは
諸伏高明という方、名言の玉手箱のような人なんだけど、この水中で彼がつぶやいた言葉が、「人生…死あり 修短は…命(めい)なり」。
この言葉、高明さんの弟、諸伏景光(ひろみつ)が亡くなったときにも口にしていたらしいのよね。
命の長短は天命である、という意味らしいんだけど、自分の身にその時が訪れたときにも同じような心持ちでいられるこの人には、なんだか凄みを感じるわ。
それに、この人の冷静さ。
おそらく死に際に見た夢幻のようなものじゃないかと思うんだけど、弟の景光が現れたのよね。
この場面に対する考察も色々あるみたいだけど、ママ的には、これはあの世からのお迎えのようなものではなくて、高明が見ている夢のようなものだったんじゃないかなって思った。
実際の状況は水の中ということもあって、その夢を見続けている場合ではないと、夢の中で判断できる人だったんじゃないかなって。
ママも、記憶にある限り、生まれてこの方1回しかない…いや、1回あれば大したものかなと思うんだけど、夢の中で「これは夢だから、目を開きさえすればこの状況から逃れられる!」って思って、実際に目を開いて夢から目覚めたことがあったの。
だから高明も、あの状況でそれが夢であると理解して、実際の行動に移ることは可能だったんじゃないかなって思うの。
高明は救い出されたんだけど、意識が戻る前につぶやいた「景光」という言葉に、コナン君、それに盗聴していた風間が少し驚いた顔をしていたのよね。
なぜ驚いたのか調べようとしたんだけど、驚いていたのはコナン君たちよりも、むしろ我々視聴者のほうだったみたい。
景光は実は生きているんじゃないか、いやそんなはずはない…といった考察がたくさんあって。
原作者の青山剛昌さんご自身が、景光(スコッチ)は亡くなっているとされているというのを見て、ママの直感はこう告げてきたの。
景光が生き延びる手立てとして偽装死が考えられるんだけど、それを確実に成立させて維持するためには、その生存を知る人は一人でも少ない方がいいじゃない。
それなら、例外は作るべきではないのよね。
つまり作者ご自身も、景光は死んだものと信じている方がいい…だからこそ、どこかでひっそり生存させてあげるために、あえてその死を信じているんじゃないかと。
ただ、ちゃんとした理解に基づく考察からはほど遠い、ママが直感レベルで受けたお告げには、高明の「景光」というつぶやきを聞いたときのコナン君たちの驚きの表情が何だったのか、その説明までは含まれていなかったのよね。
あと、ママにはコナン君がどのように推理して、林が真希の恋人だと見抜いたのかがよくわからなくて、改めて考えてみたの。
まずこの犯人、国家を脅すほどのことをしているのに、目的が「司法取引を止めたい」ということだったのよね。
でも、動機としてそれだけでは少し弱いような気もする。
つまり、制度への不満に加えて、もっと個人的な強い恨みがあるんじゃないかって、そっちにも思考が向くわよね。
で、一連の出来事の中で関係者が一番恨みを抱きそうな出来事は何かと考えると、銃砲店事件で人生を壊された船久保真希さんに行き着く。
実際、彼女の父親も強い恨みを抱えていたけど、なんとか踏みとどまっていたのよね。
だとしたら、同じように強い恨みを抱えながらも踏みとどまれなかった人物がいるとするなら…肉親に近い存在。
そう考えていくと、犯人は被害者の恋人かも…というところにたどり着けるかなって思ったんだけど、どうかな。
相関④|林になかったものなツキではなく何だった?
林はね、自分にはツキがなかったって言っていたの。
どう考えたらツキのせいにできるのか理解に苦しむんだけど、高明さんの言葉もなかなか意味深に感じたのよね。
ある本で読んだことがあるの。
人は、誰のことも許したくないんだって。
もっとも、その本に出てくる「許し」という言葉は、「赦し」と書いていたけど。
赦しっていうのは、その人や物、出来事に対する執着をなくすということ。
そこから意識をそらすことができれば、それはすなわち赦しになるんだそう。
人を恨む人って、四六時中そのことを考えてしまう傾向がありそうね。
それをほんの一時でも忘れることができれば、もしかしたらその人は救われるのかもしれない。
でもね、忘れるっていうと、時間が解決してくれるだとか、いろんなことが言われるけど、忘れるというのは意識的なものなんだと理解したわ。
そのことを手放して、何か別のことを考えようって。
でも、それが難しいのよね。人は、執着していたいんだって。
でも、そうしている限り、幸せにはなれないとも言われていたのよね。
忘れようとするには、大変な努力が必要なのよね。
高明さんは、その努力のことを勇気という言葉で語っているのかなって思ったわ。
まとめ
林は、恨みを手放せなかったから止まれなかった。
一方で鷲頭は、後悔を抱えながらも、その中で自分なりの償いを選ぼうとしていた。
「許す勇気」って、誰かを完全に受け入れることじゃなくて、自分を縛っている思いから、少しでも自由になることなのかも。
忘れることも、手放すことも簡単じゃない。でも、それができるかどうかで、その人の行き先は大きく変わってしまうのかもしれないわね。
今日も最後までご覧いただいて、ありがとうございます。


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