映画『君たちはどう生きるか』って、ふしぎな世界観にちょっとびっくりしちゃったけど、見終わったあと、なんだか心にじんわり残るものがありましたよね。
でも、「登場人物の関係性がちょっとわかりにくかった…」なんて声も聞きます。
そこで今回は、眞人くんの旅路を「相関図と一緒に」整理してみました。この物語が伝えたかった“ほんとうの気持ち”を、いっしょにたどってみましょう♪
相関図1:亡き母を想いながら暮らす新しい家|眞人の心に映る4つの存在

大好きなお母さんを失った眞人は、心にぽっかりと穴があいたまま、新しい家に引っ越してきました。
だけどね、この世界って、私たちが心に抱えたものをそのまま映してくるんですよね。
眞人が出会ったのは――
父:守りたかっただけなのに、うまくできなかった存在
眞人が学校帰りに生徒同士の喧嘩を売られてしまいましたね。きっと、そういったことを家には持ち帰りたくなかったんだと思うんです。眞人は自分で頭に石をぶつけ、たいそうな出血をしてしまいます。お父さんは大慌て「誰がやったんだ、言え!」って、父は怒鳴ります。
賞味、怖いですよね。
でも、本当は守りたかっただけなんだろうなとは思います。本当は、愛したかったのに、色々な恐れが邪魔をしていたのでしょう。怒りという形でしか表せなかった。
そんな不器用な愛が、眞人には”世界は怖いものだ”って感じさせてしまったのかもしれませんね。その後しばらく悶々とした時間を過ごすことになります。
夏子:そっと愛を差し出してくれる存在
夏子さんは、眞人に無理に話させようとしません。「無理に話さなくていいよ」って、ただ寄り添ってくれるんです。
これって、”無条件の愛”っぽいですよね。でも眞人はまだ、そんな愛をまっすぐ受け取れる心の状態じゃなかったみたいですね。それはそうですよね。まだお母さんへの思いが、心の奥底どころか、心を埋め尽くしていたんですから。
そんな思いがあって、夏子の優しさにすら距離を取ってしまう――そんな心の揺れが感じられましたね。
老婆たち:すべてをわかっているけど、そっと見守る存在たち
屋敷で働く老婆たち。彼女たちは、眞人に何も強制しません。ただ静かに、眞人が自分で選ぶのを見守っています。(まあ時に、自分たちの手に負えない行動をしようとしたときには止めにかかったりはするんですけど)
「なにもなければいいがねえ」――そんな一言に、この屋敷では、何か起こりえるんだな。。というのを感じさせましたね。老婆たちは経験の数が違いますから。もう何か起こるよ!って予感があったようにも見えましたね。
でも、彼女たちは手を出さないんですよね。なぜかっていうと、そこで描き出されていた情景というのは、眞人が心に描いた思いが映し出された、眞人視点の情景が描かれていたんだと思うんです。眞人はいい子ですから、おばあちゃんたちには、あった瞬間から良い印象や思いをもっていたんじゃないかなと思うんです。だからそのおばあちゃんたちは、基本的には眞人を守る存在となっていきましたね。
青サギ:心に隠していた罪悪感の影
そこへ、あの青サギがやってきます。
「母君は生きているよ」ってささやく青サギは、眞人の心の中にあった「救えなかった後悔」や「罪悪感」を映し出していたんじゃないかなと思うんです。
もともと屋敷のまわりにいた普通のアオサギたちが、眞人が来たことで、あんな不思議な姿に変わってしまった――
それって、眞人の心の中にあった恐れが、眞人が見る(眞人の目の前に映し出される)世界を歪めてしまったって言えるのかもしえれませんね。
夏子さんも「こんなこと初めてだわ」って驚いてました。もし眞人が恐れや母を救えなかったことに対する自責の念への執着を持ち込まなければ、サギたちは普通のままだったのかもしれないなって、思っちゃいます。
相関図2:下の世界の本質(舟・黒い人・ペリカン)

眞人は、不思議な青サギに誘われるように、森の奥にひっそり建つ古びた塔の前にたどり着きました。
「母さんは死んだんだ」そう言い聞かせようとしながらも、心の奥では、まだ「助けられるかもしれない」と願ってしまう――
そんな揺れる気持ちが、眞人の目の前に、異世界への扉を開かせてしまったようですね。
無数の舟:バラバラになってしまった心たち
塔の中に広がるのは、静かで、でもどこか絶望を感じる海。その上には、無数の舟が浮かんでいます。
でも、それぞれの舟は、みんな孤立して、ただただ一人きりで漂っているだけという雰囲気です。本当は、もともとみんなつながっていたはずなのに――
「私は他のものとは異なっているんだ」って思い込んでしまった心たちの姿なんだろうなあ、と感じます。
黒い人たち:ただ欲しがるだけになってしまった存在
手漕ぎの舟を漕いでいるのは、顔も感情も失った黒い人たち。彼らはかつて心を持っていたはずなのに、
恐れやエゴに飲み込まれるうちに、ただ「欲しい、欲しい」と求めるだけの存在になったという設定でしょうか。
映画の中で若いキリコさんが言ってましたよね。「彼らは魚を殺すこともできない」って。
本当なら、食べるために命をいただくときには、感謝の気持ちや、心を込めた祈りがあるはず。でも黒い人たちは、それすらできないのではないでしょうか。
ただ、与えられるものを無感覚に受け取って、欲望を埋めるだけの存在になってしまったんです。いつも「欲しい欲しい」と。
愛を忘れてしまった心が、どんなに哀しいか――そんなことを静かに教えてくれるような存在でした。
ペリカンたち:恐れに支配された世界の住人
墓の門の前には、群がるペリカンたちがいました。
ペリカンたちは、何のためにそこにいたのか。その門は墓と呼ばれる場所の門でした。そこは、死の世界の住人からすれば、何を得ることもできない死の場所。墓と呼ぶにふさわしい場所だったのかもしれません。でも、そこは、地面が緑に覆われ、門は美しく金色に光、死の場所と呼ぶにはふさわしくない雰囲気でしたよね。実は、そこは、天国に通ずるかもしれない場所だったのかもしれませんね。
ペリカンたちは、何も知らずに、それを肌で感じ取り、そこに行けば何かが「得られる」かもという思いで、墓の門に押し寄せたのかもしれませんね。
でも、この物語の中でペリカンはどうやら、最初から「奪う」ことしか知らず、生まれたばかりの心を、恐れや分離の世界に引きずり込もうとする存在のようにもみえました。いや、正確には、「与える」ということは知らない、ただ「得る」ために動く存在として描かれたのかもしれません。
きっと、彼らにとっては、仮に天国の入り口まで行ったとしても、そこでも「得る」ための考えや行動を起こし、結局元の地獄へ逆戻りさせられてしまうのかもしれませんね。
別のシーンでは、ペリカンの大きな口でワラワラを一気に飲み込もうとする姿には、この世界の怖さ、儚さ、そして弱い心が飲み込まれてしまう危うさが、ぎゅっと詰まっていたようにも感じました。
キリコさん:愛を思い出そうとする存在
異世界の中でも、キリコさんは眞人を守ろうとしてくれました。無愛想に見えても、そこにはちゃんと、愛を忘れない心が残っていましたね。
眞人とキリコの船上の魚釣り:小さな愛の選択
絶望に満ちた海の中で、眞人はキリコ婆さんと一緒に、小舟で魚を釣ります。
ほんの小さなことかもしれないけど――眞人が初めて、誰かと心を通わせようとした瞬間でした。
孤立して、欲しがるだけになってしまった世界の中で、「与える」という愛の行動を選びかけた、眞人の小さな一歩。
その小さな一歩が、やがて眞人を、本当の目覚めへと導いていくんですよね。
こうして眞人は、孤独と恐れに満ちた幻想の世界を歩きながらも、少しずつ、少しずつ、本当の愛を思い出す旅を始めていったように感じました。
相関図3:ヒミとの出会い:母の心にふれた瞬間
そんなとき、眞人は出会うんです。ヒミ――どこか懐かしくて、でも初めて会うような、少女に。
彼女は、若い頃の母にそっくりだったんでしょうね。眞人がヒミに夏子を知っているかと尋ねた時、ヒミは「妹か」と言っていましたよね。頭のいい眞人のことですから、当然にヒミは自分のかあさん。。と直感的に感じたんではないでしょうか。
ヒサコさんも、ヒサコさんが若かりし頃のヒミも、眞人のお母さん(ヒサコ)への執着とは無関係に、ハツラツと描かれていましたね。もちろん、火災の炎の中に描かれたヒサコさんに「ハツラツという言葉は適切ではありませんが、でも、苦しんでいるようには描かれませんでしたよね。
つらそうにしているヒサコさんが描かれたのは、全て眞人の執着が影響した情景の中のみだったように思います。
もしそれも含めてヒサコさんの真の姿であるとするなら、それは、眞人の「救いたい」という強い気持ちが、
ヒサコさんの心の小さな一部分を、ぎゅっと縛りつけてしまっていたんじゃないかとおもうんですよね。
そういった眞人の執着は、時にヒサコさんを完全に自由にすることの邪魔をするでしょうし、それは、塔の中で産屋にこもった夏子さんの姿に反映されたようにも思います。
眞人に託されたもの:手放す勇気
眞人に必要だったのは、「どうしても救いたかった。でもできなかった」という自責の気持ちを、そっと手放すこと。
無理に忘れるんじゃなくて、自分ひとりで頑張るんじゃなくて――もっとあたたかい、大きなものに心をゆだねること。
何か目の前のことにすがるんじゃなくて、ふわっと、心をひらいて、どこかに心あずける感じ。
そうすれば、心の中に、やさしい光みたいなものが流れ込んできて、自然に、あの重たかった執着もほどけていく。
そんなようなことがどこかの本に記されていたことを思い出させます。
そして眞人自身も、やっと新しい母、夏子さんに心を開けるようになるんです。
この旅は、取り戻すためじゃなかったんだ
眞人の旅は、失ったものを取り戻すためじゃなかったんですよね。
本当に大切だったのは、心にあった執着を手放して、もう一度、あたたかい気持ちを受け取る準備をすること。
愛は、失われるものじゃなかった。最初から、ちゃんとそこにあったんだって、眞人が少しずつ思い出していく――
そんな、やさしい目覚めの旅がこの映画の中で描かれたのかなとそんな気がしました。
相関図4:下の世界で会った夏子や大叔父
眞人は、旅の終わりにたどり着きます。そこで待っていたのは――冷たく、拒絶するような、夏子さんの姿でした。
夏子(幻影):心に映った恐れの影
目の前にいる夏子さんは、あの優しかった夏子さんとは、まるで別人のようでした。
でもね、本当は――眞人自身の心の中にあった、「恐れ」や「怒り」だったと思うんです。
失った悲しみ、新しい母を受け入れたくない気持ち、いろんな感情が、目の前の夏子さんを歪めて見せていた。
眞人は、そこで何かに気づきます。「ああ、これ以上、怒りや無念さをにぎりしめても、 僕は、もっともっと苦しくなるだけなんだ」そんな風に思ったのかもしれませんね。
だから眞人は、そっと力を抜きました。執着や悲しみを、にぎりしめる手を、ふわっとゆるめたんです。そして静かに――「夏子母さん」と呼びかけました。
それは、誰かを責めるのでも、自分を責めるのでもなく、ただ、愛を選ぼうとする、小さな、でも確かな一歩だったんです。
大叔父との対話:石の世界を拒む
そのあと、眞人は、塔の主である大叔父と向き合います。大叔父は言いました。「私の世界、私の力は、すべてこの石がもたらしたものだ」と。
その石は、自分の心が、自分一人で、誰にも頼らず、何かをなそう決断したことを表す象徴かなと感じました。
本当は、誰もがやさしさの中でつながっているはずなのに――「一人でできる」と信じた心が、かたくなに固まってしまった、その象徴。
でも眞人は、それを選びませんでした。
眞人は、「もう、孤独な力に頼るんじゃなくて、 もっとあたたかいものに心をゆだねたい」そんなふうに、静かに感じたんだと思います。
だから眞人は、大叔父が差し出した石の世界を、そっと断りました。
青サギとの別れ:心の影もやわらいで
旅の最後、あの青サギが、眞人を見送ります。
もう、あの青サギは、怖くもなければ、不気味でもない。眞人が自分の恐れを手放したことで、青サギもまた、優しく変わっていたんですよね。
旅の終わり、そして新しい始まり
眞人は、塔を後にします。まだ、完璧に強くなったわけじゃない。きっとこれからも、迷ったり、怖くなったりするかもしれない。
でも、それでも――今の眞人は知ったのかもしれません。心の中に、あたたかく、やわらかい光みたいなものを、
ちゃんと見つけることができるって。
新しい家族も、新しい世界も、ゆっくり、ゆっくり受け入れられる日が来る。
そしてそのとき、本当の意味で、旅は終わるんですよね。
まとめ
まとめ|心の旅が教えてくれたものは、「愛はいつもそこにある」ということ
『君たちはどう生きるか』は、ふしぎな世界をめぐる冒険のようでいて、実は――眞人くんの心の中をめぐる“癒しと目覚め”の旅だったのかもしれません。
愛する人を失い、戸惑い、怒り、そして自分を責めてしまう心。そんな重たい感情を一つひとつ手放していくなかで、
眞人くんは、少しずつ「あたたかいもの」を思い出していきました。
「取り戻す」ことが目的じゃなかったんです。本当に大切だったのは――最初から、ずっとそこにあった“愛”に、もう一度気づくこと。
誰かにすがるのではなく、誰かを責めるのでもなく、ただ、心をふわっとひらいて、受け入れていくこと。
それって、きっと私たちにもできる「小さな一歩」なのかもしれませんね。
今日も最後までご覧いただいて、ありがとうございます。
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