塔の上のラプンツェルの相関図!なぜラプンツェルは自分が王女であることを思い出せた?

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この記事はネタバレ情報やあらすじを含みます。未視聴の方は特にご注意ください

『塔の上のラプンツェル』って、ディズニー作品の中でも特に“光”が印象的な映画ですよね。

ただのファンタジーとして見るには、あまりにも象徴的すぎるシーンが多くて……ママ的には「これ、何かのメッセージが隠れてるんじゃない?」って気になってしまったの。

そこで今回は、少しスピリチュアルな視点から——“奇跡”というテーマを通して、ラプンツェルとゴーテル、そして光の意味を読み解いてみたいと思います。

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目次

相関図①|闇の世界に差し込む光と、ゴーテルの役割

塔の上のラプンツェル。とてもシンプルなストーリー展開と感じたんだけど、意外なほどに考察も多いのよね。

確かに、ストーリーをパーツレベルで見てみると「なんで?」っていう個所が結構あるの。

でも、ママ的には単にそれだけではないような気がするのよね。映画の中に光が下りてきたように、この作品にも何かが下りてきたんじゃないかって。

それをおろしてきた存在が伝えたかったことというのは何なのかしら?

今日はそんな視点でこの物語を読み解いてみようと思うの。「誰よりもあなたが好き」と言ったのは、ラプンツェルを赤ちゃんの時から育て、母親だと思い込ませてきたゴーテル

彼女とラプンツェルの関係についての考察も人気よね。ママ的には、ゴーテルというのは、神の国(国王の国)に対して、この世の普通の人間を象徴的に描き出したように感じたの。

ちょっとその理由は異端かもしれないんだけど、神様視点で書かれた「奇跡講座」という書物にヒントを得てこの関係性を読み解いてみようかな。

この物語は、ある時、天から降りてきた光が一輪の光り輝く花となって地上に咲いたところから描かれるのよね。

これは神様がこの世に滑り込ませた救いの手。その光がやってくるまで、この世界の住人として描かれたのは老婆姿のゴーテルだけなのよね。

ゴーテルがすむ世界というのは、神様に背をむけて生み出されてしまった世界。そこは光のない世界。

その世界は、次々に現れる神様に背を向け、神の国を離脱した存在で埋め尽くされている。

もちろん、この世界に産み落とされたラプンツェルも例外ではない。

でも、人はその産み落とされた世界で、神様の世界へ戻る旅をしているのよね。物語はこうして始まるの。

昔々、一粒の陽の光が天から落ちてきた。その小さな一粒から、神秘的な黄金の花が生まれた。病気やけがを治す魔法の花だったの。

この花を当時すでに老婆の姿をしたゴーテルがみつけ、独占していたの。

この花は奇跡の花。老婆はその奇跡の花のお陰でその後数百年も若い姿を維持して生きながらえ、ラプンツェルが誕生する時期を迎えるの。

でも、ラプンツェルを身ごもった王妃が病に倒れてしまう。そして王国をあげて、魔法の力をもつ黄金の花を探すことになり、運よくそれを見つけ出すことができたの。

つまりそれは、ゴーテルが独り占めしていた花を王国に持っていかれてしまったということ。

花を奪われる直前にゴーテルはその花に向かい特別な歌を歌い、その花の魔法の力によって若返りをはたした。

見た目はきれいな40代という感じかしら。きっとその後しばらくは、魔法の花の力なしで頑張っていたんでしょうね。

でも、ラプンツェルが住む城に姿を現したとき、彼女は老婆になっていた。ラプンツェルの見た目から1年かそこらを経過しただけだと思うんだけど、その魔法の力というのはほんのわずかの期間のうちに失われてしまうみたいね。

ママ的には、こんなのは真の奇跡の力ではない、ただのまやかしに過ぎない力ね。

でもね、この物語の中で、真の奇跡ももちろん描かれているのよね。だって、同じ花がもたらしたかに見える奇跡で、ラプンツェルのお母さんは病から蘇り、その後、ラプンツェルという宝を失ったにもかかわらず、再び病に倒れることなく生きていたわよね。

さらに、後半の先取りになってしまうけど、もう一人の主人公、盗賊のフリン・ライダー(ユージーン・フィッツハーバート)が脇腹を刺された傷、これが癒されて、その後の様子から完治がうかがえるのよね。

つまり、奇跡の力は確かにそこにあった。でも奇跡を呼び起すのは花にうたいかけることでも所有することでもない。

奇跡はもっと違う力によって呼び起されるんじゃないかと思うの。ゴーテルが信じたのは、そこに力が宿っていると思い込んだ偶像。でもそこに神様はいないし、真の奇跡の力を呼び起すことはできませんよというのを描いているような気がするの。

ゴーテルは、今、ラプンツェルのブロンドの髪の毛にその力が宿っていると信じて、城からラプンツェルを盗み出し、自分が住む塔の上に隠し、我が子として育てたのね。

相関図②|ラプンツェルが取った行動とは?

ところで、ラプンツェルとゴーテルが塔の上で言い争うの。で、切れたゴーテルが「あなたは一生この塔から出てはダメ!」みたいなことを言ってしまうのよね。

ラプンツェルは無垢なようでいて、ゴーテルがたしなめるように、実は自我が芽生えたばかりの子どものようでもあるの。でも知恵もついているのよね。

ゴーテルが言い放った一言は、きっとゴーテルにとっては言ってはいけない一言だったんでしょうね。

知恵のついたラプンツェルは「星を見るなんてもう言わない。代わりに絵の具が欲しいと言おうと思ったの」っていうんだけど、明らかに切れたゴーテルに対する反撃よね。

とっさにはなったウソとしては秀逸よね。ある程度は自分のことを愛してくれているとわかっていて、3日もかかるような買い物をおねだりするんだから。

でも、これは、ラプンツェルが真の愛に目覚めていくための出会いを育てていくチャンスにつながっていくことになるの。

ラプンツェルはフリンに取引しようと持ち掛ける。王女のための灯りを見せてくれと。でもフリンは無理だって。王国との関係がよろしくないんだって。

これは後で詳しく書いてみるけど、フリンもその他の者と同じように神の国から神に背を向けてこの世界にさまよい出てきた人物として描かれているように思うの。

だから、王国での関係はもちろん良好とはいえないわよね。でもこの二人の出会いや関係を、ラプンツェルはこの段階から運命だっていうのよね。

神の国に戻るための運命の出会いっていうのがやっぱりあるんだよって、そんなことが描かれてる気がする。

相関図③|なぜラプンツェルは自分が王妃であると思い出せた

人は奇跡を目の当たりにするたびに、徐々に神の世界の存在を確信していくといわれるわね。

ラプンツェルにとって神の世界は、あのお城で暮らした僅かな日々。その時見たものを思い出させる出来事が、彼女にとっての奇跡ってとこかしら。

ちょっとこの世の世界で期待する奇跡とは違ってがっかりとか思わないでね。彼女が経験する奇跡は、まさに奇跡!って認識できるものもあれば、見過ごされてしまうような奇跡もあるの。

でもそれは、人間が我欲で思っている奇跡の終着点と、本来の奇跡が導こうとしている終着点が異なるせいに過ぎないんじゃないかな。

本来の終着点にめでたくたどり着ければ、思い描くことができるような幸せの情景をはるかに超えるところへ到達するといわれているわ。

そんな旅の途中にあるラプンツェルが経験する奇跡、見逃してしまいそうな奇跡というのが、後半立て続けに出てくるの。

これは、神の世界を目指し始めた人が経験するといわれる出来事に似ている。そういった導かれてるという証になる奇跡が連続的に起こる時がやってくる。そんな風に言われていたわね。

彼女が神の国、いや、王国の王女であったことを思い出す小さな奇跡、マキシマスの首元につけられた名前と共に描かれた星形の紋様。

同じ模様がお城に行く前に町の人とダンスした広場にも描かれていたわ。町中いたるところにその星型の印が描かれ、ラプンツェルの視界をその印が埋め尽くしていく。

そして、以前には無意識で自分が住まわされていた塔の壁に描いていた星形の模様を、今、それとの関わりを完全に思い出したかのように、街の地面にしっかりと描いていた。

その世界(王国)へ足を踏み入れることに、少し怯えてもいたわね。

完全には思い出せない向こうの世界。ラプンツェルにとっては、美しい無数の灯りが夜空に舞い上がる幻想的な世界。でも、思ったほど美しくなかったらどうしようって。

それもわかるわ。神の国、思ったほどじゃなかったらどうしようって。ママだって思うもの(笑)。

我が子の帰りを信じて、最後の灯りを夜空に送り出す国王と王妃。我が子を思う神様の心境よね。我が子はもうそこまで帰ってきてるって、神様側にはまだ伝わらないのかな。

王やその世界の願いが無数の光となって夜空を照らし、さまよえる子羊のみちしるべになろうとしてるわ。

もうラプンツェルの気づきはすぐそこまで来ているような気がする。そして、塔の自室に連れ戻されたラプンツェルが自分が過去に描いた壁の紋様、そして、町から持ち帰った城の紋様を眺めるうちに、過去の記憶、両親の姿の記憶までもがラプンツェルの脳裏に蘇ったの。

小さな奇跡を積み重ねることで、自分の出自を思い出す。まさに奇跡講座がその読者に伝えようとしていることがここに描かれていたわ。

彼女は自分が王女であることを思い出せた。この世に生まれ出るとき、元居た世界の記憶は全て思い出せないようになるという。

でも、その世界のことを思い出すために、この世でどのように生きるべきか、その本に記されていた。そして、この映画の中にも、自分の置かれた今の状況と、この先自分が進んでいくべき道、どう生きていけばいいのかが示されているように感じるの。

相関図④|ラプンツェルとゴーデルや王様、王妃との関係

ネット記事にはラプンツェルとゴーテルの母娘としての関係性はある程度は出来上がっていた、つまり、ゴーテルも母としての愛情をある程度はもっていたと記されることが多いわね。

だって18年も一緒に暮らしたんだもの、間違いなく、そこには相互に思いやる気持ちというのもあったと思うのよね。

でもね、最後に、ラプンツェルはゴーテルとの関係を全否定して城に戻ることになるの。これにはちょっとショックを受ける視聴者の方もいるみたい。

ママ自身もここには最初、少し違和感を感じたの。でも、奇跡講座にこの物語をなぞらえてみると、こんな解釈もできるんじゃないかなって思ったの。

多少整合が取れないところはあるんだけど、王と王妃の住む世界は神の世界側として描かれたんじゃないかなと考えてみたの。

奇跡講座という書物に書かれていることと関連づけて出版されている本は多数あるわ。その中のいくつかは、神様は自分に似せて作った存在が、ちょっとした過ちから深い眠りについて夢の世界をさまよっているというようなことを言っているわね。

つまり、神様がご自身に似せて作られた存在というのは私たち人間の心のことで、私たちが住むこの世界は、私たちの心が描き出した夢の中の世界。たいていの時間は悪夢(笑)として経験されるわ。

物語の中では、ゴーテルのいた世界がこの世の世界。お城のある世界が神様の世界。

この約2時間の映画の中で、王や王妃が描かれる時間ってほんの僅か。そして、ラプンツェルがさらわれていなくなってしまったことをとても悲しんでいる姿だけが印象に残る。

私たちの世界でも、神様の世界が思い出されることって、ほとんどないわよね。私たちが神様に背を向けて、眠りの世界をさまよい続けていることを神様はとても悲しんでいるんだって。

この神様の姿と王や王妃の姿がママにはかぶって見えるのよね。

因みに、最初、ゴーテルが住む暗闇の世界、それは昔々という言葉で表されたけど、そこに一つの小さな光が舞い降り、それが光り輝く花となったってあったわよね。

奇跡講座的にはこの光は、神様が闇の世界に何とか滑り込ませることができた「聖霊」という光。神様自身はこの闇の世界に入り込むことはできないんだけど、その代わりに、聖霊という存在をこの闇の世界に滑り込ませることができたというの。

この聖霊という存在は、闇を光にかえ、奇跡を起こして、神様の世界を思い出させてくれる存在。どう?この物語の中で描かれた光と同じように感じない?

それは、最初の時、光り輝く花のような姿をとった。でも、その姿かたちに意味はなかったし、その光がもつ奇跡を起こすという力は、まやかしの歌声によって呼び出されるものではなかったのよね。

ゴーテルがラプンツェルの髪の毛を切りとったとき、それは輝きを失った。それは、光が呼び起こす奇跡は、その髪の毛にあるわけではないというお告げじゃないかしら。

ちょっと悪の強いゴーテルだけど、花に向かって歌を歌っているとき、そこにはほんの僅かながらも、花にうたいかけるという愛の気持ちがごくわずかあったのかもしれないわ。

つまり、奇跡の発動は愛への呼びかけによって引き起こされるということ。花にうたいかけるとき、ゴーテルは多少の愛を感じていたのかもしれない。

ラプンツェルを育て、髪をとかして歌を歌うとき、ラプンツェルへごくわずかながらも愛を向けていたのかもしれない。

でも、本当の奇跡を呼び起せるほどには愛一色になり切れていなかったのね。だから、目の前に起こった奇跡のようなものは、真の奇跡、つまり永久の平安をもたらすものではなかった。

光は、花だけにあったわけではなかった。それはラプンツェルの髪に宿ったように見えた時もあったし、ラプンツェルの涙に宿ったように見えた時もあった。

本当は、光はどこにでも宿っているのよね。でも、それを発動できるのは、誰かのことを本気で愛したとき。

ラプンツェルはユージーンのことを本当に愛して、そして涙した。そこに奇跡が起こり、彼女たちは永久の平安を得ることになるの。

だから、ゴーテルが短時間の間に若返りと老婆の姿を繰り返したようなことは彼らにはおこらなかった。

そして、彼らは、永遠の平安の世界、神の世界として描かれたお城がある方の世界に戻ることになる。

ラプンツェルは18年間育ててくれたゴーテルをバッサリと切り捨てたっていわれることも多いんだけど、このように考えていくと、それは少し違うと思うの。

私たち、いや、ラプンツェルの旅は、神様の国へ戻る旅。そこでの肉体を介したつながりというものには何の意味もないといわれるわ。

ただ、そこで相手のことを思いやる真の愛がはぐくまれたなら、それは、神様の国で別の姿をとってしっかり維持されるというの。

つまり、ゴーテルが真の愛に目覚めた時には、ゴーテルが真に美しい姿となり、神の国に住まい、必要があればまたラプンツェルとであうこともあるのでしょう。

奇跡講座的には、この世界と神様の世界はそんな関係として描かれていたように感じるわ。

奇跡講座に描かれる神様の世界を深く理解するというのはとても難しいといわれているから、その世界をそのまま映画にできる人もあまり多くはないかもしれないけど、知らず知らず、そういった世界観が映画の中に部分的にでも入り込んでいることはあるかもしれないとママは思っているの。

まとめ|

ラプンツェルの旅って、塔を出てお城に帰る物語だけど、ほんとうは“神様の世界を思い出す旅”だったのかもしれませんね。

奇跡って、特別な花や魔法が起こすものじゃなくて、誰かを本気で愛した瞬間に生まれるもの。その愛があれば、どんな闇の中にも光はちゃんと差し込むのよね。

ラプンツェルの金色の髪も、涙の光も、きっとその“愛のかけら”が形になっただけ。あの灯りが空に浮かぶシーン、何度見ても胸が熱くなるのは——私たちの中にも、同じ光があるからかもしれませんね。

今日も最後までご覧いただいて、ありがとうございます。

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