映画8番出口の相関図

映画8番出口を観て思った事
とっても難しく感じた映画でした。
なので、要領よくここに感想をまとめるなんてとてもできそうにない。
思いつくままにここにつづらせていただくことをお許しくださいね。
もうこの映画、観た人それぞれが、それぞれ好きなように解釈を任されている映画ということでいいのかしら。
自分が人生に迷った、何かにすがりたいと思った事のある人なら、それぞれにその状況に当てはめ見ることができる映画かもしれないわね。
ママ的解釈はこんな感じ。
この映画の世界は、ほとんどの部分が「迷う男」さんの心が目の前に描き出した幻想の世界。
心には、目の前に幻想を出現させる力があるというのは、精神世界を取り扱う本の中にはよく出てくる話よね。
ママたちが生きるこの世界、「毎日が同じことの繰り返し」という風にもいえるし、いや、よく注意、意識を向けてみれば、いろんな違いが起こっているとか、どちらともいえそうな世界。
でもね、本質的なことは、この映画が描いてくれてるような気がしたの。
心が目の前の現象を引き起こしているのだとしたら、心の中のどこかに、そういった色といったらいいのか、その心の一部に貼りついた影と言ったらいいのかしら、そういった曇りを象徴的に投影する仕組みがあるんじゃないかと感じてるの。
そう、ちょうど、影絵のような感じ。
心の中心には曇りのない光があるんだけど、その周りに、何かその光をさえぎってしまうものが刻まれてしまっている。
例えば、その光を遮るものが、ゾウの形をしていたんであれば、目の前にはゾウの影が映し出されるのよね。
心の中の光を遮るもの、それはゾウのように特定の形をもたないのかもしれないけど、その性質を象徴するようなものを映し出すように思うの。
その光を遮る部分を取り換えるか、拭い去ってしまわない限り、目の前には同じようなもの、同じような印象を与えるものが映し出し続けるんじゃないかな。
これが、毎日変わらぬ、退屈な日常として描き出される。
ひとによっては、それが、とても退屈なんて言う言葉で言い表すことはできない激烈究める忙しい状況や辛い出来事だったりするかもしれないわね。
その状況に耐えがたくなってきたとき、人は学んで、多くの人は、そこに感謝の気持ちを持ち込むことで、状況を変えることができるはずだと学ぶ。
感謝の気持ち=光という公式が成り立つようなんだけど、光が当てられたところに、影は存在できなくなるのよね。
心の影をまとった部分というのは、実は、影を失うことを恐れているといわれるわ。
だから、時折、目の前にいろんな変化を起こして、感謝するという習慣や学びを忘れさせるような出来事を起こしてくる。
これがこの映画の中で言われる「異変」に当たるような気がするの。
異変が起こったとき、人は恐れ、目を背けたり、そこから逃げようとする、そしてそれを忘れようとする。
でも、この映画の中では、「もとに帰れ」っていうのよね。
ママ的には、この「元に返れ」というのは、さっきまでうまくできていた感謝の状態に戻れという事のような気がするの。
そして、目の前の状況に騙されず、無関心にならず、ただ感謝する心持に戻ることを続けた時、人は、この同じところをぐるぐると彷徨い続けているような状況から脱することができるんじゃないかって。
つまり、8番出口から抜け出すことができるんじゃないかって思ってる。
因みに、「歩く男」さんの状況が描かれていたシーン、これは、この「歩く男」の心が生み出している状況が描かれたものだと思ってる。
最近では、人それぞれにそれぞれの宇宙が存在するとか言われているわよね。
それぞれの心がそれぞれの世界を生み出している。
それらはお互いに、ある部分では干渉しているのかもしれないわね。
でも、「迷う男」が見るというより、映し出している「歩く男」は「迷う男」の心が「歩く男」が映し出した影を利用させてもらって投影しているんだと思う。
ものの本にはこんな風に描かれることもあるわよね。
誰かに対して怒りを抱いたりしたら、それはその誰かを縛り付けてるようなものだ。解放してあげなさいって。
つまり、自分の怒りの存在が成り立つように、その誰かの影が怒りの対象として、いらだたしく見えるように演じさせる(こちらから投影している)。
その気の毒な状況から、その人を解放してあげなさい。。そんな風に言われることがある。
簡単に言ってしまえば、「迷う男」が普段自分の周りの人をどのように見ているかというのがそこに再現されている。
「歩く男」が主体になっているシーンで描かれ、登場した「迷う男」は、「歩く男」が普段周りの人をどのように見ているかを象徴したような態度や言葉遣いで現れてくるという事。
これもよく言われることだけど、目の前の人が攻撃してくるのは、自分の心の中にその要素があって、それが目の前の人を使って投影されているというもの。
ママの日常も、8番出口を探しているような日常って感じがするわ。
この人、私がミスするの、ずっと後ろつけてみてるんじゃないのって感じるくらい、まあ、ちょっとでも仕事でミスろうものなら、後ろから大声で追いかけてきて。
こんな職場環境いつまで続くのかしらって感じることも多いんだけど、これがね、日常の中の「異変」なのよね。
たぶん。
その時に、今まで通り、「なんやこいつ!」とか思いながら、時間の経過に任せてそのいやな思いを紛らわせたりしてる日常。
これは、異変に気付きながらも、元へ戻ろうとできていない状態。
元に戻るというのは、「光」ある方向へ戻るという事。つまり、で・き・な・い・んだけど、私のミスを大騒ぎしてくれるそのおば様のことを、有難い!(光)って思う方向へ向かわなければ、いつまでたっても8番出口にはたどり着かないのよね。
歩く男さんが、8番出口の階段を駆け上がり、光が差し込む方へ向かいながら「俺は悪くない」とか言っていた。
あの人が悪いとか、私が悪いとか悪くないとか、8番出口から真に表に出るためには、そんなことはどうでもいいのよね。
あの歩く男さんの心は、きっとまだ、彷徨い続けるんだと思う。
「今」、その状況に、それがどんな状況であったとしても「感謝」すること以外に、真に8番出口にたどりつく方法はないんだと思う。
だとしたら….誰がそんなことできるんだろ…まあ、それでも、それが正解だと思ったなら、一歩ずつでも進んでいくしかないのよね。


コメント